下のは、もろもろの都合で、「白砂村3巻」に収録できなかった論説文形式の教義です。
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『エンターテイメントについての教義@』
今井 神






 脚本家の三谷幸喜さんが「喜劇しか作らない」と言っていたのを聞いて、大いに賛同した。
僕は漫画を描く時いつも「エンターテイメントとは何か」を考えている。
「このSASというサークルが生み出す作品を通して、どのようなエンターテイメントを提供できるか」
それが最大の命題なのです。
 いや別にそんな堅苦しく難しいことを考えてるわけではないんだけど、文章にするとこうなってしまう。
 僕は美術系の大学で「油絵」を専攻している。もちろん、漫画しか能のない僕のような人間は、普通の大学に入るだけの学力を持ち合わせていない。だからこそ絵で勝負するしかなかったのだが、大義名分は他のところにある。
 綺麗なだけの絵を描ける人ははいくらでもいる。顔だけしかうまく描けない漫画家もいくらでもいる。そんな中で解剖学的に正しい漫画的ディフォルメを修得するためには、写実の世界を勉強した方がいいと思ったのだ。


「油絵」と「漫画」の最大の違いは、「鼻っ柱の高さ」にある。
「油絵」は芸術、
「漫画」はエンターテイメントなのだ。
「漫画」とはそのサブカルチャー的な土壌に支えられているからこそ輝くのだ。
漫画を親に隠れてこっそり読んだ経験はないだろうか。決して世の表舞台に立つべきものではないのだ。
隠れて飲む水は甘い。
秘密は楽しい。

だからどんな人にも理解できる可能性がなくてはならない。
 「漫画」はいわば人が生きていく上で必要ななにかを勉強する「裏」の教科書であるべきだと考える。

アンダーグラウンドだからこそ過度の娯楽が成立するのだ。


 だからもちろん教科書に漫画が載るってのもあまり歓迎するべき事ではない。まあ厳密な意味では「漫画を触媒にした説教」であるだろうから、エンターテイメントが成立してないので「漫画」とはいえないが。
教科書を広げた下でこっそり読むからこそ漫画なのだ。

だからあまりメタファー(暗喩)を込めるべきではない。
誰でもわかるから漫画なのであって、

「ここの白と黒のコントラストによって主人公の良心の呵責が表現されている」

みたいな漫画がこの頃多いが、
「白と黒でああ綺麗」
くらいでもストーリーや意味が理解できるようでなくては話にならない。
まあ例えば過激な性描写を避けるために、処女を失うときに花びらが散る絵をかわりに置いたりするっていうのなんかは大いに結構である。
 だがメタファーを込めすぎると一部の知識人にしか理解されない「芸術」になってしまう。

たとえばキリストの母「マリア」の受胎告知に描かれる「ユリの花」「マリアの処女性」をあらわしている。

あるものがちがう何かを象徴している。これはすでに知っている人にしか理解できない。
 「人間は生まれながらにして罪を背負っている」
という「原罪」の思想が我々日本人にはピンとこないように、立場の違う人間がみたらさっぱりわからない。


つまり「芸術」とは「最大の内輪ネタ」なのである。




 なぜかけ算のことを「九九」というかご存じだろうか。
「一一」から始まるにもかかわらず。


答えは、当時の貴族が、庶民に「かけ算」を憶えさせたくなかったからである。

かけ算を、自分達だけが知っている秘密の便利魔法にしておきたかったからだ。
「一一」から始めると、かけ算は簡単に憶えやすいが、「九九」から始めると難しくて憶えにい。自分たちの間だけに止めることで、選民思想的な満足に酔いしれていたのだ。


「芸術」とは、つまり、わかる人達だけに楽しむことが許された「内輪ネタ」なのだ。
ピカソの絵を見て、どこがうまいのかわからない人はきっと大勢いることだろう。
なぜうまいとされるのか理屈を知ってもあなたはきっと心の底からは納得しないであろう。

ゴッホの絵もしかり。今では原色の、中でも黄色を豪快に使う「巨匠」扱いされているが、近年の研究によると彼は、重度の薬物中毒で黄色だけ強調されて見えるような脳障害をおこしていたにすぎないという。

後世の人がなんだかんだ理由をつけて彼を巨匠扱いしているが、実際芸術とは、
その根拠に脆弱な「暗黙の了解」を含んだ文化
だったのではないだろうか。